2300年前の大豆ヒストリー@下松
下松は2300年前から大豆にゆかりのある土地
宮原遺跡から出土した弥生時代の大豆
地元の人もほとんど知らない下松市(くだまつし)の大豆の話です。約40年前、山陽新幹線の敷設工事が下松市でも行われることになり、この路線工事で部分的に消滅する宮原遺跡(みやばらいせき)を山口県教育委員会が発掘調査しました。調査は1972~1973年(昭和47~48年)に、宮原遺跡の一部の約1万㎡で行われました。この時、弥生時代前期後半(約2300年前)の大豆と思われる植物遺体が出土。発見当時、これは日本最古の大豆だと考えられました。
上の写真は、新幹線工事で遺跡が消滅したエリア。宮原遺跡は「弥生時代前期後半」「弥生時代後期後半」「古墳時代後期」の複合遺跡です。現在はこの丘陵に数戸がお住まいです。右手のこんもり茂った木々の奥には古墳時代の「宮原1号墳」が残っています。遺跡の大半は台地の奥部と先端部にまだ埋存しているそうです。
下松の宮原古墳(宮原1号墳)
宮原古墳(宮原1号墳)は紀元6世紀ごろの豪族の墓だと考えられています。円形墳で横穴式の石室があります。近くで農作業をしていた方は「小さい頃は穴の中に入って遊んだもんじゃ。いろいろなものが残っちょったんじゃが、いつの間にかのうなって(無くなって)しもうた」と話されていました。ちょっと覗いてみましたが、不気味なので中には入りませんでした。
下松は古くから交通の要衝
宮原遺跡のある高台からは、瀬戸内海が一望でき、晴れた日には遠く大分県の国東半島(くにさきはんとう)も見えます。下記の地図を縮小して見てください。海路だと九州はとても近いのです。
より大きな地図で 宮原遺跡 を表示
下松は古くから良港に恵まれ、瀬戸内海航路の要衝だったと考えられています。弥生時代の宮原遺跡は2つの環濠集落から成り立っており、防御がしっかりしていたようです。すなわち、当時は戦があった不穏な社会情勢だったことを意味しています。
山口県埋蔵文化財センターにあった大豆の現物
今回、下松ネットが出土した大豆がどこにあるか各所に問い合わせたところ、山口県埋蔵文化財センターに出土した64粒の大豆が保存されていました。発見当時に大豆であろうと鑑定された植物遺体があるということで、詳しい話をお伺いし、現物を撮影させていただきました。この場を借りて心よりお礼申し上げます。
宮原遺跡の弥生時代前期の遺構には44の土坑(どこう=土のくぼみ)がありましたが、その内4つの土坑から大豆が出土しています。これらの土坑はゴミ捨て場か貯蔵穴だったと考えられています。
宮原遺跡の大豆は発見当時日本最古だと考えられていましたが、最近数年間の間に発見があり、日本における大豆の歴史は縄文時代中期にまでさかのぼるそうです。一般的には縄文時代は農耕をほとんどしていなかったと思われていましたが、陸稲(熱帯ジャポニカ)、大豆、小豆、大麦、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどを混作をしていたと現在では考えられています。
宮原遺跡では、大豆以外に、稲(炭化籾)、ハクウンボクの種子、ノモモ、コナラ(ドングリ)、炭化小麦、炭化大麦などの植物遺体も出土しています。中でも稲(炭化籾)は陸稲かもしれず、水稲農耕を取り入れる前の弥生人の集団だった可能性があります。
下松では縄文遺跡は発見されていませんが、宮原遺跡の近くにある上地遺跡(あげちいせき)から縄文土器のカケラが出土しています。もしかすると宮原遺跡のどこかに縄文の遺跡も眠っているのかもしれませんね。
2300年の大豆ロマン
下松は、少なくとも「2300年前から大豆にゆかりのある土地」だということは言えます。歴史的には、大豆が一般に広まったのは鎌倉時代以降だそうで、江戸時代においてもなお大豆は贅沢品だったようです。それが、下松では2300年前の弥生時代から食べていたわけですから、どんな生活レベルだったのか、どんな食文化だったのか興味がわきますね。
大豆は煮豆、枝豆、きな粉、もやし、納豆、豆腐、油揚げ、厚揚げ、豆乳、醤油、味噌、湯葉、おからなど、現代でも多種多様に加工されています。それは生大豆にある弱い毒性を加熱して無効化するためなのですが、消化吸収をよくして美味しく食べるための知恵でもあります。下松の弥生人は、やはり弥生土器で煮て食べていたんでしょうか?豆ご飯ぐらいは普通に作ってそうですよね。
弥生時代の下松に思いをはせながら、現代の食文化を考えてみるのは意義あることです。下松ネットでは、この「大豆ゆかりのまち、下松」を一つのテーマとして、今後いろいろなプランを考えていきます。
※取材協力・・・山口県埋蔵文化財センター
※参考文献